目次
はじめに
本記事では、日本ワイン産業において「現存する日本最古のワイナリー」として特別な存在感を放つ、まるき葡萄酒の歴史と、その継続的な貢献についてご紹介いたします。まるき葡萄酒は、明治24年(1891年)に土屋龍憲氏によって設立されました。日本の近代ワイン醸造が始まったばかりの黎明期において、明治政府の殖産興業政策を背景に、先駆的な役割を果たしてこられました。短期間で解散してしまった先行の「大日本山梨葡萄酒会社」とは対照的に、まるき葡萄酒は創業以来、一度も途切れることなく事業を継続し、その並外れた回復力と適応能力を証明し続けています。
同社は、日本初のシャンパン「朝日シャンパン」の発売をはじめ、逆浸透膜技術の導入、混醸ワインの開発など、革新的な醸造技術を積極的に取り入れてきました。また、甲州やマスカット・ベーリーAといった日本固有のぶどう品種に特化し、その長期熟成の可能性を追求することで、日本ワイン独自の個性を確立する上で重要な役割を担っています。さらに、不耕起草生栽培や羊の放牧といった持続可能なぶどう栽培の実践は、環境を大切にしながら高品質なワインを造るという現代的な模範を示しています。まるき葡萄酒は、その長い歴史と絶え間ない革新を通じて、日本ワイン産業全体の発展に多大な影響を与え続けているのです。
日本ワインの夜明けと「最古」の定義
日本ワインの歴史を紐解く上で、「最古」という言葉の解釈は非常に重要です。単に「最初に設立された」ワイナリーと、「現在も事業を継続している最古の」ワイナリーとでは、その歴史的、産業的意義が大きく異なります。多くの情報源が、まるき葡萄酒を「現存する日本最古のワイナリー」として一貫して位置づけています。まるき葡萄酒は明治24年(1891年)に設立されました。
しかし、歴史をさらに遡ると、明治10年(1877年)に設立された「大日本山梨葡萄酒会社」が、日本初の民間ワイナリーとされています。この会社は、設立からわずか10年足らずの明治19年(1886年)には解散してしまいました。その理由としては、醸造技術の未熟さや、当時の日本人がワインに慣れていなかったことなどが挙げられています。解散後、その醸造設備は他の事業体に引き継がれました。
この歴史的経緯は、「最古」と「現存する最古」という表現の間に存在する重要な違いを明確にしています。大日本山梨葡萄酒会社が日本初の民間ワイナリーとして設立されたものの、その事業が短期間で終わってしまった一方で、まるき葡萄酒は1891年の創業以来、途切れることなく事業を継続してきました。この継続性こそが、まるき葡萄酒が「現存する日本最古のワイナリー」として特別な地位を確立している根拠となっています。これは、単に早く始めるだけでなく、困難な初期段階を乗り越え、持続的に事業を営むことの歴史的価値と、産業の発展における回復力の重要性を示していると言えるでしょう。
しかし、大日本山梨葡萄酒会社のような「最初の試み」が直面し、最終的に事業を停止したという事実は、初期の産業確立がいかに困難であったかを明確に示しています。技術的な未熟さや市場の受容性の欠如といった課題は、新興産業にとって共通の障壁です。まるき葡萄酒がこれらの障壁を乗り越え、今日まで存続していることは、その適応能力、戦略的先見性、そして初期の試みから得られた教訓を活かす能力があったことを強く示唆しています。先行する企業の失敗を理解することは、まるき葡萄酒の持続的な成功が持つ意義をより深く認識するための重要な背景となります。
まるき葡萄酒の揺るぎない礎 創業者 土屋龍憲の情熱
まるき葡萄酒の創業者である土屋龍憲(つちや りゅうけん)氏は、高野正誠氏とともに、日本人として初めてワイン醸造技術を学ぶためにフランスへ派遣された人物です。この派遣は明治10年(1877年)に大日本山梨葡萄酒会社によって行われました。
彼らは約1年半にわたるフランスでの滞在中、トロワやマルセイユといった都市でぶどう栽培とワイン醸造の技術を深く学びました。特に土屋龍憲氏は、シャンパン製造の複雑な工程に強い関心を示し、その技術を熱心に習得したと伝えられています。彼らは明治12年(1879年)5月に無事日本に帰国されました。
土屋龍憲氏のワイン醸造に対する根本的な信念は、「フランスワインがフランス料理に合うように、甲州ぶどうが和食に合わないはずがない」というものでした。この強い信念は、彼が日本固有の甲州ぶどうを用いた日本ワインの開発に注力する原動力となりました。しかし、帰国時に勝沼へ持ち帰ろうとしていたヨーロッパ系ぶどうの苗木が、フィロキセラというぶどうの害虫によって壊滅的な被害を受け、やむなく放棄せざるを得なかったという困難にも直面されました。この不運な出来事は、結果として甲州のような日本固有品種への依存と開発を強化する結果となり、日本ワインの独特のアイデンティティ形成に貢献したと言えるでしょう。
大日本山梨葡萄酒会社が明治19年(1886年)に解散した後、土屋龍憲氏は明治24年(1891年)に山梨県勝沼に「マルキ葡萄酒」(現在のまるき葡萄酒)を設立しました。土屋氏は、解散した大日本山梨葡萄酒会社の醸造設備を引き継ぐという戦略的な行動を取り、資源と知識の継続性を確保されました。創業当初、彼は自宅の醸造所を「土屋第一洋酒店」とし、甲府の常盤町には「土屋第二商店」を設け、「第一甲斐産葡萄酒」と「サフラン葡萄酒」の販売を開始しました。
明治25年(1892年)には、「日本ワインの父」と称されるマスカット・ベーリーAの開発者、川上善兵衛氏がワイン醸造法を学ぶために土屋家を訪れました。土屋家は川上善兵衛氏を歓待し、知り得る限りの醸造方法を伝授したと伝えられており、これは新興産業における初期の知識交流の重要な事例を示しています。
逆境を乗り越えた歴史 戦争と移転、そして現代へ
まるき葡萄酒は、その長い歴史の中で、数々の困難を乗り越えてきました。創業者である土屋龍憲氏は、「大水害」や「緊迫する社会情勢」といった著しい逆境に直面しながらも、ワイン醸造を継続されました。彼の「甲州ぶどうが和食に合わないはずがない」というぶどうにかける強い想いが、この困難な時期を乗り越える支えとなりました。
日清戦争(1894年)、日露戦争、第一次世界大戦といった軍事主義が台頭する時代には、国産葡萄酒は将兵にとって重要な医薬品として扱われるようになりました。まるき葡萄酒は、この時代背景を受け、陸海軍の将兵や各地の救護団体に「マルキ葡萄酒」を寄進し、合計5500本もの葡萄酒を寄贈するなど、社会貢献も行いました。これにより、事業の継続性を確保し、社会における存在意義を高めたと言えるでしょう。
戦後、日本ワイン産業全体は、戦時中の強制的な増産による反動で一時的に低迷しました。この時期には甘味果実酒の人気が高まりましたが、本格的なワインの消費量が甘味果実酒を上回るのは昭和50年(1975年)になってからです。このような厳しい状況下でも、まるき葡萄酒は事業を継続し、昭和24年(1949年)には近代的な経営形態へと移行し、「まるき葡萄酒株式会社」を設立しました。
昭和47年(1972年)には、甲州街道バイパス道路の建設に伴い、ワイナリーを現在の甲府盆地と南アルプスを一望できる丘陵地に移転するという大きな転換期を迎えました。この移転は、一時的な混乱をもたらしたものの、結果としてワイナリーの近代化と、より魅力的な景観を持つ施設へと発展する機会となりました。
革新のパイオニア 日本ワインの未来を拓く技術
まるき葡萄酒は、その長い歴史の中で、日本ワイン産業における数々の画期的な革新を主導してきました。明治35年(1902年)には、日本初のシャンパンである「朝日シャンパン」を発売するという大きな功績を成し遂げました。この快挙は「めざましい活躍」と称賛され、「日本ワイン史の礎を築きました」と評価されています。
さらに、昭和58年(1983年)には、逆浸透膜技術を用いて濃縮果汁から醸造した日本初のワイン「リッチネス」を導入しました。これは、当時の最先端技術をワイン醸造に応用した画期的な試みでした。平成12年(2000年)には、山梨大学との共同研究の成果を活かし、日本初の混醸ワイン「甲州あかね」を発売しました。これは、学術研究と産業の実践が融合した先進事例です。
また、同ワイナリーは「自動選果機」を導入しており、これは日本国内ではまだ数少ない先進的な設備であり、ぶどうの品質管理における精密さと効率性へのコミットメントを示しています。これらの最先端技術への積極的な取り組みは、まるき葡萄酒を単なる歴史的な存在としてだけでなく、常に革新を続ける存在として位置づけ、日本ワイン生産全体の品質、一貫性、技術的洗練度の向上に大きく貢献しています。
日本固有品種へのこだわりと持続可能なぶどう栽培
まるき葡萄酒は、甲州とマスカット・ベーリーAという日本固有のぶどう品種に特化したワイン生産を戦略的に行っています。創業者の土屋龍憲氏は、「フランスワインがフランス料理に合うように、甲州ぶどうが和食に合わないはずがない」という強い信念を持っていました。この信念は、日本固有品種の可能性を最大限に引き出すという同社の哲学の根幹を成しています。
特に、まるき葡萄酒は甲州ワインの長期熟成において顕著な成功を収めており、1959年ヴィンテージのワインが現在もセラーで熟成されています。これは、甲州が長期熟成には不向きであるという従来の認識を覆すものです。また、マスカット・ベーリーAは、土屋氏と交流のあった川上善兵衛氏によって1927年に開発された品種であることも特筆すべき点です。
まるき葡萄酒は、現代におけるワイン造りの重要な側面として、持続可能性と環境への配慮を重視しています。同社は、「不耕起草生栽培」と農薬使用の削減を積極的に実践し、自然で健康的なぶどう畑の環境を育むことを目指しています。
この栽培方法は、土を耕さずに様々な種類の雑草をぶどうの木とともに生やすことを含みます。この実践は、土壌中の有益な微生物を増やし、水はけと保水性のバランスを改善し、害虫の天敵となる昆虫や小動物の生息地を作り出すことで、ぶどうの虫害を最小限に抑えることを目的としています。さらに、雑草とぶどうの根が競合することで、ぶどうの木が生命力を高めようとするという利点もあります。
特に注目すべき持続可能性への取り組みとして、まるき葡萄酒はぶどう畑で羊を放牧しています(この実践は2013年に開始されました)。これらの羊は雑草を食べ、地面を掘り起こすことで土壌を肥沃にし、その排泄物は健康的な肥料となります。これにより、除草剤の使用が不要となり、土壌の循環が促進され、表土が耕されることで微生物の活動が活発になり、土壌の状態が改善されます。このような近代的な手法は、環境に優しく、自然を破壊しないという点で大きなメリットがあります。
まとめ
本記事では、「現存する日本最古のワイナリー」であるまるき葡萄酒が、日本のワイン産業の発展において果たしてきた多岐にわたる重要な役割を明らかにいたしました。明治24年(1891年)の創業以来、同社は数々の歴史的、経済的、そして自然的な困難を乗り越え、その事業を継続してきました。これは、先行する「大日本山梨葡萄酒会社」が早期に解散したこととは対照的であり、まるき葡萄酒の回復力と適応能力の高さが際立っています。
まるき葡萄酒の創業者である土屋龍憲は、日本人として初めてフランスでワイン醸造技術を学び、その知識を日本に持ち帰りました。彼の「甲州ぶどうが和食に合う」という哲学は、日本固有品種の可能性を追求し、日本ワイン独自のアイデンティティを確立する上で極めて重要な指針となりました。
同社は、日本初のシャンパン「朝日シャンパン」の発売、逆浸透膜技術の導入、混醸ワインの開発など、常に技術革新の最前線を走り続けてきました。これらの革新は、日本ワインの品質と多様性を高め、産業全体の発展を牽引する原動力となりました。また、甲州ワインの長期熟成に成功したことは、固有品種の潜在能力を再評価し、日本ワインの国際的な評価を高める上で大きな意味を持ちます。
さらに、不耕起草生栽培や羊の放牧といった持続可能なぶどう栽培の実践は、環境負荷を低減し、土壌の健全性を保ちながら高品質なワインを生産する現代的なモデルを提示しています。これは、日本ワイン産業全体が持続可能な未来へと向かうための重要な方向性を示唆しています。
まるき葡萄酒の歴史は、単一企業の物語に留まらず、日本の近代化、産業発展、そして文化の適応と創造の縮図と言えます。その継続的な存在と革新への取り組みは、日本ワインが国際的な舞台でさらにその存在感を高め、独自の価値を確立していく上での礎であり続けるでしょう。
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